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仄めかしという犯罪について

  • 横尾俊一郎
  • 2016/03/01 (Tue) 16:34:13
拝啓 初めましてこんにちは。この度、このような手紙をお送りさせて頂いたのには重大な理由があります。どうしても告発したい日本の隠された犯罪について、新潟大学法律相談部様に知って頂きたかったからです。以下、仄めかしという日本の隠された犯罪について、記します。どうかお読みになってください。これは重大なことなのです。なぜなら被害者は私の他にも沢山いると思われるからです。この手紙を精神病患者の戯言だとおもって一笑に附されるのなら、あなたは正義を捨てることになるでしょう。

日本には仄めかしという犯罪が確実にあります。
私は2014年の秋頃からずっとこの仄めかしという犯罪の被害を受け続けています。
そして、おそらく私の他にもこの犯罪の被害者は多数存在すると思います。
この仄めかしという犯罪には、大手広告会社、数多くのメディア、政党が関与しています。
この仄めかしという犯罪は、まずハッキングやストーキングといった違法な手段を用いて、被害者の個人情報を収集します。
次に、集めた情報を被害者に分かるように様々なメディアで仄めかします。
これにより、被害者は恐怖心を感じ、生活が脅かされます。そして自由な言論が封殺されます。

どうしてこんな犯罪が私に対し仕掛けられたのか。
それは仄めかしの被害に遭うまでの私の積極的なインターネットへの批判書き込みが原因かと思われます。仄めかしの被害に遭う前、私は、政党に対し、メディアに対し、そして広告会社が手掛けた仕事に対し、批判する内容の書き込みを大量にしていました。
然し無論、これは言論の自由の範囲内です。

どうしてこんな大きな犯罪が実行可能なのか。
それは今の一業種一社制という規制の無い状態で、ある広告会社がほぼ独占状態になっていること、それから、その力を持った広告会社とメディアと政党が癒着していることが原因だと思います。
今の日本の首相の奥方はその広告会社の出身です。

新潟大学法律相談部様にお願いします。
この件を調べて公にしてください。犯罪者を裁いてください。大メディアは広告会社、某改憲派政党とグルなので、役に立たないのです。

私は小説家志望なので、この件に関する私小説(Nonfiction)も送ります。然し、決して、書いてある内容は嘘や創作ではありません。                             敬具


「社会」


   一


二〇一四年の秋、もしくはもっと前から、自分は「仄めかし」という犯罪行為の被害に遭っていた。「仄めかし」とはハッキングや盗撮、盗聴、ストーキングの結果集めた情報を、それとなく仄めかすことによって、特定の個人に恐怖心を与え、精神的に追い詰めるという犯罪手法である。
 相手はわからなかった。後々、自分の頭の中には、「自由民権党」、自由民権党の言論工作機関である「自由民権党ネットサポーターズクラブ」、大手広告会社である「電信」、アニメ関連会社である「アニメプレイス」、「角山グループ」、「照英社」、「フジヤマテレビ」、「テレビ首都」、「東京BSテレビ」、「東京BSラジオ」、「文明放送」、「公共放送であるNKH」、電力会社関係、新興宗教団体である「総価会」、右翼団体、暴力団などが浮かんだが、自分にはハッキング犯を特定する技術も、またその技術があっても罪を犯す意思が、その時は無かった為、そしてまた、自身の生活状況もあって、加害者の特定はできなかった。
当初自分は、スマートフォンとパソコンにより、インターネットに接続していた。その頃よく閲覧していたサイトの中に、「小説家でごはん」、「5ちゃんねる」、「解放5ちゃんねる」、それから、「5ちゃんねるまとめサイト速報プラス」というサイトがあった。「5ちゃんねる」と「開放5ちゃんねる」は名前も似ていて、どちらもそっくりのインターネット掲示板であったが、「5ちゃんねる」が自身に書き込まれた内容の転載を禁止した為に、「開放5ちゃんねる」が作られたという経緯があった。謂わば、古い「5ちゃんねる」と新しい「5ちゃんねる」であった。然し、全体的には未だ古い「5ちゃんねる」の方が利用者は多かった。
他に、「5ちゃんねるSC」というのもあって、ユーザーの獲得において、三つ巴の状態になっていたが、自分はあまり「5ちゃんねるSC」の方は見ていなかった。
因みに、その転載禁止になる前の「5ちゃんねる」から恣意的に書き込みを抽出して、記事にしていたのが、「まとめブログ」というものであった。「5ちゃんねるまとめサイト速報プラス」は、その「まとめブログ」を、さらにまとめたものであった。
「小説家でごはん」については、これはそのサイト名からも推測できる通り、小説投稿サイトであった。
ハッキング、仄めかしに気づく少し前に、ここで一寸したいざこざのようなものがあった。
「小説家でごはん」には、「フライング赤毛布」なる名前のユーザーがいた。かなり苛烈な批判精神の持ち主で、歯に衣着せぬ物言いで、他人の投稿した作品をばっさばっさと斬っていた。自分はそのフライング赤毛布のことが別段嫌いでもなかった。フライング赤毛布は、確かに苛烈な批評を繰り返してはいたが、その批評にはある種の潔さが感じられた。そして批評の内容も必ず十人中八人が、「まあ、そうだろうな」と思う内容で、良く的を射ていた。また、「小説家でごはん」というサイトは、そもそも自身の作品を投稿し、批評し合い、互いに切磋琢磨し、最終的には小説家になって、小説家として稼いだお金でごはんを食べようと、つまり生計を立てようという志を持ったサイトであった。故にフライング赤毛布が、他人の作品を批評してばかりで、自分の作品を投稿しているのを見たことがないという客観的事実を鑑み、仮に悪と考えてみたとしても、自分は必要悪であろうと思っていた。それは「小説家でごはん」の作品投稿欄や、感想欄で見ない日はほとんどない常連達も、大体自分と似たような考えか、それ以上に、フライング赤毛布に対し、好印象を持っているかのようだった。
然し一方で、初めて「小説家でごはん」を利用する者、つい昨日、よし小説を書こうと思い立ち、とりあえず「小説家でごはん」に投稿してみようという者がいたとしたら、手厳しく感じるだろうなとも自分は思っていた。「小説家でごはん」は基本的に小説を投稿するサイトであったが、小説として成立していないようなもの、詩のようなもの、掌編小説といっても、ショートショートだといっても擁護できそうにないもの、思うがままに書き散らしたようなものを、投稿してくるユーザーも時々いて、フライング赤毛布はそれらのユーザーが投稿した作品に対し、例によって苛烈な批評を書き込んでいた。常連同士ならば、フライング赤毛布のそのキャラクター性と、「小説家でごはん」の雰囲気に慣れているから、それほど傷つくことはないだろうが、そうでない人の中には傷つく人もあるかもしれないと、自分は思っていた。それには自分もまともな作品をあまり投稿できていなかったという事実もあった。不思議とフライング赤毛布の苛烈な批評を頂くことはあまりなかったのだが。
「5ちゃんねる」には、実は「小説家でごはん」の様子、ユーザーの投稿した作品やユーザーの批評について、こっそりと匿名で発言できるスレッドがあって、そこでは皆がフライング赤毛布か、フライング赤毛布以上の素直さで書き込みを行っていた。自分はこっちが本当なのだろうと思っていた。
そこの名無しの権兵衛の一人が言うには、フライング赤毛布の苛烈な批評があるからこそ、「小説家でごはん」に投稿される作品は、他の小説投稿サイトに比べ、レベルが高いのだということだった。自分はその主張に対し、そうかもしれないと思うのと、疑問に思うのと、半々くらいであった。然し自分はそういうことが頭にあっても、フライング赤毛布を批判する気にはならなかった。自分はインターネットの言論の自由というものを信じていた。
ある時、自分はフライング赤毛布を、自身の作品によって批判してみたい気持ちになった。先に述べたように、自分はフライング赤毛布に対し、何の嫌悪の気持ちも無かった。唯、フライング赤毛布の苛烈な批判に対する批判を、作品でやったらどうなるのだろうという、無邪気な好奇心であった。フライング赤毛布なら笑って受け入れてくれるだろうと思っていた。自分は小説とも呼べない短い文章の中に若い夫婦を描いた。そのうち細君の方を妊婦とした。お腹の子供は夫婦にとって初めての子であり、夫婦共々、戸惑い、心配が絶えないとも書いた。その細君が出産予定日にはまだ早いのに産気づいてしまう。夫が慌てふためき、救急車を呼ぼうとした所へ、自分はフライング赤毛布を登場させた。そしてフライング赤毛布に夫を殴らせ、気絶させた後で、三島由紀夫の金閣寺のように細君の腹を踏みつけさせ、赤ん坊を殺させた。そして最後に「未熟児なんていらんのだ」という台詞を言わせた。勿論未熟児とはそのままの意味ではなく、「小説家でごはん」に投稿される拙い小説のことであった。途中、「何かを生み出すということは常に不安との戦いではなかろうか」、というわかりやすい一文も入れた。自分はそれを「小説家でごはん」に投稿した。予想は当たり、また外れた。フライング赤毛布自身は多分、わかってくれた。感想欄に、
「その死んだ赤ん坊を細君の腹から取り出し、ぺろりと丸飲みにした。というのも付け足してくれ」
というようなことを書き込んできたからわかった。自分は嬉しかった。然しその後でフライング赤毛布は、自分はこのサイトを去るというような内容の書き込みを続けた。理由は、これから仕事が忙しくなるからなどと書いてあった。すると周りの者が反応した。「MG一九」、「鉄腕」、「八つまみ」、「コジ・リン坊」「赤木」などの常連であった。自分に対しての批判の嵐であった。「MG一九」とは前に一悶着あった。自分が過去に投稿した、これもまた出来損ないの短い小説があったのだが、この内容の一部について、「MG一九」は間違いを指摘してきたことがあった。自転車の交通ルールに関してであった。自分は自転車の交通ルールの書かれている信頼できそうなサイトを検索し、自分が間違っていないことを確認して、その内容をやんわりと提示し、角の立たないように反論した。本当だったらきっぱりはっきりインターネット流にやってもよかったが、その時の自分には相手が同じ小説家志望、あるいは小説家に憧れを持っている者同士ということで、変な仲間意識があり、柔らかく応対した。が、尚も相手は自説を強弁した。自分は然し、繰り返し抑制して相手の主張の間違いを諭した。それでも「MG一九」は自説を主張し続けた。自分は閉口した。そして、「MG一九」への個人的評価を自分の中で人知れず下げた。「鉄腕」とは別に何も無かったはずだが、それにしては感情的になって自分を批判していた。「八つまみ」は過去にいじめっこを自称していて、面白い人だなと思っていた。自分の推測では多分女性なのだろうと思った。「八つまみ」は自分が、「ちょっとした風刺なんですよ」というようなことを他の人へ返信で書いたのを、意図的に揶揄と言い換えて感想に書いた。自分は言い争うつもりはなかった。その風刺と書いたのは批判に対する一応の防衛策として書いたもので、本当はフライング赤毛布にちょっかいを出してみたかっただけであった。だから自分はその言葉の言い換えにはあえて触れずに返信した。それ以上「八つまみ」は続けて感想を寄越さなかった。いじめっこ心が満たされたようだった。「コジ・リン坊」ついては自分はろくでもない奴だと思っていた。何やら映像関係の私塾のようなものをやっているらしかったが、フライング赤毛布と同じく自分の作品を投稿しなかった。では、批評の方はどうかというと、こっちはフライング赤毛布と違って、自分の目から見ると的外れなものが多く目についた。それだけならまだいいが、センスの無いストーリーの改稿案を度々書き込んだ。これはどうなのだろうと自分は思っていた。それは作家の個性の範疇であろうと。「コジ・リン坊」の批評に疑問を持っていた人は、他にもいたようで、時々、例の「5ちゃんねる」のスレッドの方で批判されているのを見た。然しそれもインターネットだろうと自分は解釈していた。
誰もが対面状態では自ずと抑制し、その結果として縮小し、歪められてしまう言論の自由が、その様々な現実生活の影響から解放されて、存在できる可能性を持つのがインターネットである、と自分は思っていた。こういうことを言うと、言論の自由は無制限ではないという輩が必ず出てくるものだが、誰もそんなことは言っていない。現に殺人予告や爆弾を仕掛けるといった風な犯罪予告、というか、それ自体が犯罪なわけだが、そういう書き込みを行った者は警察に逮捕されている。言論の自由は無制限ではない。法律という限度がある。然し、誰かにとって都合の悪い意見を、対面状態よりも素直に表現して許されるのがインターネットの利点ではなかろうか。
他に自分の投稿した作品の感想欄に書き込みをしてきた者で、「赤木」というユーザーがいた。このユーザーの名前をフライング赤毛布はなぜか別れ際の挨拶で、自分のユーザー名と並べて書いた。何やら今日で退職する職場の上司が、内心こっそり目を掛けていた若い社員に、「おまえら頑張れよ」と声を掛けるような感じであった。「赤木」はなぜ自分の名が出されたのかわからないなどと書きながらも、自分が嫌いな他人の作品に対する改稿案を書き込んでいった。自分は「赤木」のことが好きでも嫌いでもなかった。然しこの後「赤木」はとあるユーザーに粘着されて、フライング赤毛布と同じく「小説家でごはん」から姿を消した。自分はそれを外野から何の口出しもせずに見守っていたが、「赤木」が「小説家でごはん」を去るという時になると、「ああ、ついに去ってしまうのか」、と思った。然しまたそれもインターネットであろうという所に落ち着いた。
ハッキングされる前に「小説家でごはん」においてそのようなことがあったのは確かに事実である。


それより少し後のこと、「開放5ちゃんねる」ではこんなことがあった。自分はニュース速報プラス板という所で、自由民権党への批判を大量に書き込んでいた。自分は別段どこの政党も支持していなかった。唯、自由民権党を批判すると、見ている人には野党を支持していると映るらしかった。実際、自由民権党を批判すると、その内容は野党の言っていることと似通ってしまうことがあった。自分はまた売国奴という言葉を使って自由民権党を批判した。この売国奴という言葉は自由民権党の支持者である、いわゆるネット右翼と呼ばれる人達が好んで使う言葉だった。自分はそれを逆に、自民党に対して使って批判したら、混沌とした論争が作り出せそうで、おもしろそうだと思って多用した。時期もよかった。その頃、中国の漁船が日本近海の赤珊瑚を盗みに来ていた。中国の漁船は百隻、二百隻という数で押し寄せてきているのに、政権与党である自由民権党は自衛隊を出動させず、海上保安庁の五隻の船だけで対応していた。自分はこれをネタに、自由民権党を売国政党だと批判した。無論、何もかも遊びであった。その都度、ネット右翼らしき人が書き込んできて、反論したり、弁解したりした。自分はその反応が楽しかった。自分は他にも原発の再稼働の是非、消費税増税、太平洋自由貿易協定などの問題で自由民権党を批判した。原発事故の被害者には同情を感じていたが、それ以外のことに関しては強い関心があるとは言えなかった。唯単に、自分は必死になって反論してくるネット右翼の人達と、言い争い、論争という遊びがしたいだけであった。
カトキヨ公といういつも同じ名前で活動している自由民権党支持者がいた。ある時自分はこのカトキヨ公と一戦起こした。例の赤珊瑚泥棒の中国漁船団の件であった。決まった名前で書き込みを行うユーザーは、それだけ自信があるということで、自分はカトキヨ公のことを、きっとそれなりのインテリなのだろうと思っていた。自分は自らが虎でもなく猫でもなく蛆虫であることを知っていた。
カトキヨ公は自分に、「自衛隊は出動させることはできない」と主張してきた。自分は、「なぜできないのだ。根拠を示せ」と返した。自分はきっと大学の国際政治学部とかやるような、自分の知らない難しい国際法の話や、政治情勢の話や、外交戦略について書き込んでくるのだろうと覚悟した。が、長いこと掛かってカトキヨ公が返してきたのは、ウィキペディアのとある記事を張り付けたものだった。しかもそれも、ちゃんとした反論になっていなかった。自分は、「反論になってない。根拠を示せていない」と書き、さらに、「長いことかけてウィキペディアの記事かよ」と煽った。インターネットでは普通の行為であった。キヨマサ公は、「こいつとは話にならない」とか何とか捨て台詞を残して去った。他の取り巻きのネット右翼は、自分のことを馬鹿だのクズだの言ったが、自分は別段気にしなかった。インターネットの世界ではそれが普通だった。
然し後になって、自分の相手をしてくれていた人達が、本当にネット右翼の人達であったか、疑問を持つに至った。自由民権党ネットサポーターズクラブの存在と、自由民権党が常時、インターネットを監視して、自由民権党に都合の悪い意見には、即座に反論する体制、つまりインターネット上で世論操作をする仕組みを整えているとの情報を、知ったからであった。よくよく考えてみれば、反論を書き込んでくるのが妙に速かったような気がした。
またカトキヨ公に関しても、その正体が単純なネット右翼であったか、疑わしいと思ったことがあった。加藤清正は熱心な日蓮宗徒であり、総価会も日蓮宗には破門されているものの、日蓮宗を基に作られた新興宗教団体である為に、総価会の会員は戦国武将の中でも、加藤清正をよく好むとの話があった。総価会が支持母体であり、ほぼ総価会の政治部と言っていい公命党は、自由民権党と連立与党を組んでいた。単に熊本県出身であっただけかもしれなかったが。
自由民権党それ自体の他にも、自分は自由民権党の岩場茂が電力会社の株を大量に保有しているとの書き込みや、HNKが東京電力と同じ独占企業だという書き込みを繰り返し行なっていた。
ハッキング、仄めかしが始まる前に「開放5ちゃんねる」で起こったのは大体そのようなことだった。


「5ちゃんねるまとめサイト速報プラス」では、自分は主に、時事系の記事をまとめたブログと、アニメの感想をまとめたブログに書き込みを行っていた。自分はアニメをよく見ていた。実際好きであったかどうかわからない。自分は何にせよ、軽々しく好きだと言えない性格であった。最初は退屈しのぎに見始めたのだが、何本も見るうちに、自分はアニメを勝手気ままに評価して見る愉しみを覚えた。評価の大まかな基準も、その愉しみ自体も、自分は他のインターネットユーザーの書き込みから学んだ。彼ら、彼女らは、本当に勝手気ままな意見を言っていた。その状況を最初に見た時は、たかがアニメで何をそんなに熱く語っているのだと、思わずパソコンの画面を見ながら笑ってしまったこともあったが、徐々に自分も、ネット上においては勝手気ままな意見を、憚りもなく主張するのが普通なのだと理解するようになった。これは「理解」したわけであるから、自分の考えが先にあったわけではない。目の前にある状況がそうであった。
二〇一四年七月から「フジヤマテレビ」で放送されていた、「精神病質者」というアニメがあった。SFのジャンルに属し、近未来のディストピアを描いたもので、刑事ものでもあった。この「精神病質者」というアニメは放送開始以前より評判が高かった。過去に電脳機動隊という作品があった。原作は漫画であり、映画版とテレビシリーズ版の他にゲームも作られていた。映画版はハリウッド映画にも影響を与えたともいわれ、テレビシリーズ版の方もサリンジャーの小説や過去の社会問題をモチーフにするなどして、高いエンターテイメント性とテーマ性をうまく両立させ、評価されていた。放送開始前、「精神病質者」の制作スタッフの言葉として、「電脳機動隊」を超えるおもしろさだとの発言が、インターネット上に出回った。自分は期待して放送を待った。そしてこれは質アニメというやつだと思った。質アニメとは言葉通り、質の高いアニメである。コンテンツ商売であるアニメ産業では、視聴者にそれなりにウケるものを作って、映像商品をある程度売らなければならなかった。いわゆるオタクと呼ばれる主な客層は、美少女と軽いエロティシズムを好み、腐女子と呼ばれる女性のオタク層は美少年同士のホモセクシャルな描写を好んだ。自然、作られるアニメ作品も美少女キャラクターばかりが出てきたし、普通の男性キャラクターかと思っていたのが、急にホモセクシャルな言動、態度を示したりした。話の内容も似通ったものが多かった。こう言う作品群を萌えアニメ、あるいは腐向けといった。萌えアニメはよく売れた。そんな萌えアニメばかりの中で、時々話のおもしろさで勝負する作品が放送されることがあった。そういうアニメを質アニメと呼んでいた。無論、自分の作った言葉ではない。アニメ関係のまとめブログに書きこまれていたのを見つけて、なるほどこういう言い方があるのかと、自分は学んだのであった。然し勿論、萌えアニメと質アニメの中間のようなアニメも存在した。質アニメか萌えアニメかは一概に分けられるものではなかった。そこにも勝手気ままな意見があった。
さて、「精神病質者」の放送が始まった。視聴してみると、思っていたほどではなかった。むしろ設定やストーリーの矛盾点や瑕疵が多々見受けられた。自分の心持ちは批判の方へと傾いた。自分は失望のまま、「精神病質者」への批判をまとめブログに書き込んだ。他にも自分と似たような批判をしている人達がいた。そしていつもながらの「信者」と「アンチ」の不毛な言い争いが始まった。「信者」も「アンチ」も、互いが互いに付けあったレッテルであった。要はそのアニメを評価して見ている陣営と、評価しないで見ている陣営であった。そこでは侃侃諤諤を通り越して、馬鹿だのクズだの書くのは当たり前。人格攻撃も当然で、モラルハラスメントって何ですか? それっておいしいのですか? じゃあ聞きますけど、異なるモラルを主張する人がいて、双方が互いをモラルハラスメントだと訴えた場合、モラルハラスメントは即ちモラル押し付けハラスメントになりはしませんか? といったような有り様だった。然しそれがこの場所の、インターネットの普通であり、常識であり、日常であった。自分もこの普通の中にいた。
自分は他にも「スマイル動画」など色々な所に書き込みを行っていた。スマイル動画では「ニコる」という機能があって、それは動画に対して付けたコメントを評価する機能であったが、そのニコるという機能で、一時期短期間に何度も自分のコメントを評価されたことがあった。それまでの頻度から考えてありえないことで、これも仄めかしの一つの手口なのだろうと思った。
自分はこの他にも様々な所に書き込みを行っていたが、それを作品上で逐一挙げてもキリがないので止すことにする。唯、自分はハッキング、仄めかしという卑劣な犯罪の被害に遭う前は、このように積極的に言論の自由を行使していたインターネットユーザーであった。


   二


自分はひきこもりであった。そして二十六であった。光陰矢の如し。特に絶望している人間にとっては尚のことであるらしかった。きっかけは高校生の頃であった。すでに一年の時には数学の問題がわからなかっただけで、その授業が終わった後の休み時間に涙を流し、周りの友人達から笑われながら慰められていた。また、現代社会の一寸左寄りの褒め上手な教師から、穀物メジャーが仕掛ける市場での価格操作によって、アフリカの貧しい子供達が飢えていると聞き、それがずっと頭から離れず、なぜだかアフリカの子供達が飢えているのに、自分はこんなにもつまらない高校生で、然して夢も無く、どうしてのうのうと生きていられるのだと、訳の分らぬ罪悪感に苛まれ、そのことでも泣いた。思うに二年生に上がる前より心の崩壊は始まっていた。
一年の時にバドミントン部辞めたこともあった。このことは実際プラスに作用したのか、マイナスに作用したのかわからない。自分は小学生の頃から野球をやっていた。高校で野球部に入らなかったわけは、中学の最期の夏の大会で、ベンチにも入れなかったからであった。手前味噌ながら自分にはそれなりに実力があったと、その時は思っていた。自分は投手であった。最初の頃は球速がそこそこあるだけの、とんでもないノーコンであった。然し経験を積むごとに制球力は良くなった。三年生になった時期には狙えば外角低めに投げられるようになった。何時の頃からかフォークボールも覚えた。ボールを離す瞬間に、人差し指と中指の間から、挟んだボールがうまく抜けるように投げるのがコツだった。自分はフォークボールを覚えると、頭の中では上原気取り、野茂気取りで、フォークボールを投げた。決め球にフォークボールを使い、相手バッターから三振を奪うことは、自分にとって素晴らしい快楽であった。然し、自分は選ばれなかった。最後の夏の大会のチームの結果は、地区大会の二回戦止まりだった。自分はその試合のゲームセットを後輩達と一緒に応援席から見た。涙なんか出るはずがなかった。唯、虚しかった。
母親は時々、野球のことを封建的スポーツだと言った。監督の出したサインによって選手が動くから、という理由らしかった。父親も母親も妹も、家族は自分以外バドミントンをやっていた。幼い頃から週に何回か、夜になると両親は夫婦揃って練習に出かけた。自分も一緒に連れていかれたが、体を動かす以上の楽しみは見出せなかった。だから天国先生などの見たいアニメがあると、録画すればいいとの説得も聞かず、独りで留守番して、作品中に出てくる妖怪がいないかどうか確認する為に、後ろを振り返るか、テレビ画面を見続けるか、判断しかねていたということもあった。そういう家庭だから、自然自分の家はバドミントンのことが話題に上ることが多かった。そういう時、自分は黙っていた。


中学のOB戦の帰り、ファーストになるまで自分と同じくピッチャーをしていたHに、
「本当に野球続けないのか?」
と言われた。自分は消極的に肯定した。最後の夏の大会に選ばれなかったという事実が、自分の心理に何かしらの影響を与えていたことは確かだった。
自分は結局、高校では野球部に入らなかった。楽しくバドミントンでもやろうかと思った。家族もきっと自分がバドミントンを始めれば喜ぶだろうとも思っていた。然し思惑は外れた。自分の高校のバドミントン部は人数こそそれほど多くなかったものの、変に厳しかった。先輩の一人はわざわざこの埼玉の高校のバドミントン部に入る為に、東京から通っていた。顧問の教師が有名な人らしかった。自分には唯、口の悪い人という印象が強かった。毎日夜遅くまで練習があった。自分は疲れ果てていた。また、もともとあまり勉強をしない自分であったが、疲れていることを言い訳にして、余計にしなくなった。元々低空飛行をしていた成績が、どん底まで落ちた。こんなはずであったろうか、と自分は思った。野球を辞め、バドミントンを始めた自分に対し喜んでいた母親に、自分はバドミントン部を辞めると言った。母親はなんやかんや言って続けさせようとしたが、自分は口の悪い顧問の所へおっかなびっくり退部する意思を伝えに行った。顧問は、
「せっかくお前のお母さんも家族みんなでバドミントンができますって言ってたのによ」
と言った。自分はそれでもバドミントン部を辞めた。辞めた後で何件かバイトの面接を受けた。すべて不採用だった。同じクラスにYという男がいて、自分はそのYに陸上部に誘われた。Yも中学では野球部に所属していたが、高校では陸上部に入っていた。陸上部には同じ中学だったHと、同じ駅を利用していて、隣町の中学校に通っていたSもいた。自分はこの三人を含め、陸上部の人達に優しく迎えられた。今思うと、陸上部は自分の心の支えであった。
然し心の崩壊は止まらなかった。何とか二年生に進級したものの、自分は徐々に行動もおかしくなっていった。まず担任と衝突した。太った中年女であった。自分は最初、小学校か中学校の時に家庭科の教師であった人に似ていると思った。その家庭科の教師はエプロンの後ろのボタンが閉められない程に太っていたが、高校の時の担任がそこまで太っていたかは憶えていない。高校二年生になってまだ間もない頃であった。とある朝のホームルームで起立して、係の者が挨拶しようとすると、担任であるその中年女が、
「まだ!」
と言った。自分は何だろう訝しんでいると、教室のあちらこちらで生徒達が服装を直し始めた。自分は窓際の一番後ろの席であったから、それが良く見えた。男子は制服の一番上のボタンを開けている者が多かった。女子はスカートを織り込んで短くしている者が多かった。係の者が頃合いを見計らって挨拶しようとすると、また、担任の中年女が、
「まだ!」
と言った。自分は一番上のボタンを開けたままにしておいた。特に拘りがあったわけではなかった。自分はなんとなく皆と同じようにしていただけで、本当の所、そんなことはどうでもいいと思う人間であった。唯、やり方が気に入らなかった。おそらくは心の崩壊が、この時すでに行動を狂わせるほどに進行していて、正常な判断ができなかったのだろう。係の者が挨拶しようとしたが、その度に担任の中年女は、
「まだ!」
と言った。自分はボタンを閉めるつもりが無かった。予鈴が鳴るまでそれは続いた。担任の中年女は何も話さず教室から出て行った。前の席のオタクっぽい男子生徒が振り返って、
「勝ったね」
と言った。皮肉であったろう。また気の強そうな女子が自分の悪口を聞こえるように言った。唯、そのやり方については女子であって、自分には直接言わず、誰かに話しかける形式で自分を攻撃した。
二年生になって心の崩壊は尚、進行度を増した。自分は徐々に学校に通うのが怖ろしくなった。朝、家を出る時間になると決まって、腹痛が起きた。母親はトイレに閉じこもり遅刻を繰り返す自分に苛立ちを募らせ、毎朝トイレのドアをヒステリックに叩いた。自分は自分の腸をミキサーにかけたくなった。ようやく腹痛が治まった頃には、当然、乗るべき時刻の電車はとうに出発していた。間に合うはずがなかった。然し母親は自分を家から追い出した。自転車を漕ぐ足が異様に重たく感じるようになった。地元の街なのに、見慣れた景色が自分を飲み込もうとしているかのように思えた。自分はそのうち引き返すようになった。最初は学校の前まで行った。次に学校のある駅まで行った。次には地元の駅で止まった。自分はこの時、今でも現実であったか、幻覚であったか、判然としない光景を見た。白髪の老婆が太った背の高い長髪の男の手を引いて、改札の方へと歩いていた。自分はそれを駅のベンチに腰掛けて眺めていた。男はその体格からして十分に大人に見えた。目が見えていないという風でもなかった。然しその老婆と男の関係の雰囲気は、まるで幼稚園児とその手を引く母親であった。今になってみると、もしもそれが現実であったとしたら、自分が見た男は何かしらの障害を持っていたのかもしれない。そういう事情があったのかもしれない。然し自分は怖ろしかった。なぜだかその男が自分である気がした。学校へ行かず家に引き返してくることが常態化したある日、自分はついに母親に見つかった。母親はパートで働いていて、昼食も会社の方で食べていたから、一日家に帰って来ることはなかった。然し、その日は体調が悪いとかで午前中に早退してきたのだった。母親は自分に、
「なんで家にいるの?」
と怒った。線路に飛び込みそうだったからとは言わなかった。
自分の出席記録は穴ぼこだらけになっていた。部活の友人達や同じクラスの者達の自分を見る目が変ってきたような気がした。あいつは限度を超えている。限度を超えて落伍者となっている。周りの者達の目の中に、自分はそういう意が映っているのを見た。
久しぶりに出た世界史の授業の、脇道に逸れた会話で、教師がウィリアム・テルのことを聞いて、誰かがロビン・フッドと答えた。自分はそんな光景がなんだかものすごく遠くに感じた。その授業の最後に、世界史の男性教師が自分に対して、「授業が終わったらプリントを貰いに来るように」と言った。授業中、休んでいたせいでプリントを貰っていないのに、自分が机の中を探していたのを見ていたのだろう。自分は優しさを感じたが、プリントは貰いに行かなかった。自分は三年生に進級する為には、もうすでに単位が足りていないことに薄々気づいていた。
その頃の自分はもう完全にまともではなかった。同じ部活に所属する女の子の悪口を全く何の悪意も無く、知らず知らずのうちに聞こえるように言っていたり、担任の中年女を殺す妄想ばかりしていた。
終わりの引き金を引いたのは、所属する陸上部の顧問であった。背が高く、さわやかな顔立ちに、日に焼けた肌の体育教師であった。久しぶりに出た部活の終わった後で、皆が部室棟のほうへ戻っていく中、独りだけ残された。そして、
「勘違いしてんじゃねえぞ」
と怒鳴られた。終わりだな、と自分は思った。部室で待っていた友人達に何と言われたか聞かれた。自分は適当に内容を話し、自分はもうこの学校には居場所が無くなってしまったと言った。その日以来、自分は一切登校しなくなった。


独りで部屋に閉じこもっていると、度々父親が来た。頑張れよ、とか励ますようなことを言った。然し自分の心はすでに気が違っていると思われる程壊れていたから、父親とは一切話をせず、目も合わせず、唯、涙だけを流した。そういうことが何度もあった。一度テレビを見ながら、ふいに笑ってしまったことがあった。どうして笑ってしまったのか正直わからない。覚えていない。唯、本心から笑ったのではないことは確かであった。それをドアの外から聞いていた父親が部屋に入ってきて、
「笑っているじゃないか。病気なんて嘘だろ」
と言った。自分は途端に涙が出てきた。ぱっくり裂けた傷口を、ナイフで抉られるかのようであった。それ以来、父親とはまともに話していない。
 二か月程経ってから二回面談があった。一回目は自分と母親のみで行った。教頭が応対して自分に関する世辞を言ったりした。現代社会の授業で出席番号順に、新聞記事を基にしてスピーチをするというのがあった。自分はとある小説家に関する記事を選んで、少し張り切って原稿を書いた。今思えばかなり幼い内容であったと記憶しているが、それを自分の番になって発表した時に、一寸だけ賞賛された。教頭はそのことを言った。保護者対策のテクニックだったのだろう。
 二回目は父親も同伴した。今度は向こう側に校長と担任の中年女もいた。教頭が主に話を進めた。自分の処遇についての確認が主だった。自分は始終黙っていた。担任の中年女は自分の前に座っていたが、教頭が自分の父親や母親と話している途中、ずっと自分にだけ見えるように、スリッパだかサンダルだかを履いた足の先をパタパタやっていた。自分は最初不思議な気持ちでそれを見ていた。その後で、もしかしてこれは、自分に対する仕返しなのかしらと自分は思った。然し自分は、その時別段激昂したり殴りかかったりしなかった。自分の心はすでに崩壊し尽くしていたから、何をしようとも思わなかった。唯じっと、目の前の幼稚な大人の足のパタパタを見ていた。話が終わりかけた時、担任の中年女が急に文化祭のポロシャツ代を請求した。自分は文化祭の準備のかなり初めの方に、一応の義務感で顔を出したことはあったが、それ以来は一切関わっていなかった。母親は抗議したが、結局は腹立たしげに金を払った。返り際、父親の運転する車の後部座席の窓から、陸上部の長距離走のメンバーが学校の外周を走っているのが見えた。


 自分は一応、転校扱いになっていた。全日制の高校から、通信制の高校へ、次の年度から移ることになっていた。通信制とはいっても、週に一度、電車で行けば六つ先の駅に当たる町まで登校しなければならなかった。自分はそれが嫌で嫌でたまらなかった。然し母親はその日が来ると、自分を車に乗せて送った。帰りはバスと電車だった。自分はその通信制高校でまともに会話した者がいなかった。一人同じ中学であったろう女の子が、何度も遠くから自分の名前を呼んで声を掛けてくれたが、自分はそれを完全に無視した。唯怖ろしかった。自分はもう中学校時代の、多少は活発な男の子を演じられる自分ではなくなっていた。人と話すことさえ怖がるような、なぜ自分が社会の中に存在していられるのか、ということにまで疑いを持つような、キチガイであった。
 自分は二十歳の時ようやく高校生でなくなった。その通信制高校にも卒業式はあったのだが、自分は出席しなかった。後日、卒業証書と他の書類だけを貰いに行った。渡してくれたのは授業中、人間狩りに愉しみを見出し、猟銃自殺した、アメリカの作家が書いた小説が原作の、鼻の位置に関するとある映画の台詞について話していた英語教師であった。その英語教師は自分に卒業証書を渡す際、
「就職先は決まっているの?」
と聞いた。自分は否定した。英語教師は何やら励ましてくれたが、自分はこれから何をしていいのかわからなかった。


それまでにも増して、また無為な日々が始まった。全日制高校に通っていた時に心の崩壊が始まって、通信制高校に通い始めてからも、精神はずっと病み続けていた。「死にたい」、あるいは、「おれは死ぬ」、あるいは、「僕は死ぬんだ」というような台詞が、谷崎潤一郎の異端者の悲しみの主人公のように口癖になっていた。これまで何度か母親は、自分のことを心の病気だといって、精神病院に連れて行こうとしたことがあった。自分はその都度頑なに断った。単に医者と話をするのが怖ろしかったのもあるし、自分が精神病患者だと確定してしまうことも怖れていたかもしれない。後にインターネットで調べてみた結果では、統合失調症の破瓜型というのが自分には当てはまるような気がした。それから鬱病、社交不安障害、対人恐怖症なども心当たりがあった。ずっと、死のう、死のう、と考える日々であった。
インターネットの閲覧と書き込みは、自殺願望を紛らわすにはよかった。嘘か本当かわからない膨大な情報。世の中のニュースや他のくだらないことに対する対面状態ではあまり聞けないような過激な感想。そこかしこで起こる不毛な言い争い。様々な動画作品。その窓からは自分にとって丁度良い距離で他者を感じることができた。
 

そんな無為な生活の中で、自分はふと警察官を目指してみようかと思った。絶望の中にあっても、何かしなければいけないことは理解していた。それがまた、絶望を生んでいた。然し、自分はまだちゃんとした大人になりたかった。それに自分は警察官というわかりやすい職業なら、何もかもが無価値に見えている自分でも、納得して働いていけるかもしれない、この壊れて弱くなった心も、警察学校での生活や、その先の労働の中で、徐々に健全さを取り戻していけるかもしれないと考えたのである。思い立ってから自分は、インターネットでひきこもり 警察官と検索してみた。インターネットなのだから本当か嘘かはわからない。然しひきこもりから、あるいはニートから、警察官になったという体験談が幾つか出てきた。自分は母親に警察官を目指すと宣言した。気掛かりであったのは、視力であった。自分は視力があまりよくなかった。然し受験しようと思っていた警視庁の受験資格には、裸眼で〇・一あって、眼鏡、コンタクトによる矯正視力で〇・六に達していれば良いと書いてあった。自分はその時、自分の視力がどれ程なのか把握していなかった。然しとにかく何もしないでいるよりは勉強を始めた方が良いと思った。
勉強は捗らなかった。自分は精神を病んでいた。また本格的な勉強をするのも久しぶりであった。記憶力も集中力も、最初からそれほど高くなかったものが、さらに、格段に落ちていた。インターネットで調べた結果、統合失調症になると、記憶力や集中力などの知的能力に障害を来すとあった。唯、よく統合失調症というと、被害妄想が代名詞のように挙げられるが、妄想の症状がひどいのは妄想型と呼ばれている型であり、自分が患ったのは、おそらく思春期から青年期に良く発症すると言われる破瓜型であった。破瓜型では妄想症状はあまり見られず、大方、症状として現れるのは、陰性症状であり、考えがまとまらず、感情が乏しくなり、意思の疎通性が欠落し、いわゆるひきこもりがちになり、自閉的になるというのが主な症状であった。
然し自分は、劣等感がひどかった。他の自分よりも一寸勉強ができる人間ならば、こんな高卒警察官の採用試験など、別段苦も無く鼻歌を歌いながら合格してしまうのだろうと思った。自分は何度も部屋の床に問題集を叩きつけた。自分の側頭部を拳で殴った。そしてやけになって勉強を放棄して、一週間か二週間くらいすると、また始めるという繰り返しであった。
当然、落ちた。受験者数千四百七十人中、八百四十八番で、合格者数は六百十五人であった。自分はこんな頭の悪い人間は生きていてはいけないのだと思った。然し自分は次の年も受けることにした。合格者数が予想していたよりも多かったからであった。六百人も受かるのか、という気持ちであった。二次試験があることは知っていた。然しこの二次試験は体力測定と面接であり、それに身体測定であって、インターネットや本を読んだ情報によると、余程のことが無い限り通るとのことであった。自分は運動部に所属していた過去を思って、少し走り込んで筋力トレーニングをすれば、なんとかなるだろうと思っていた。面接は猛烈に怖ろしかった。然し聞かれることはある程度予想できた。機械のようになろうと自分は思っていた。自分は前年に使っていた問題集に加えて、問題集を増やした。勉強は依然捗らなかった。統合失調症は治っていないのだから、当然であった。統合失調症の破瓜型は妄想症状こそないものの、予後不良が際立った型でもあるらしかった。一度目の受験と同じように、自分の程度の低い脳味噌を呪って、やはり問題集を床に投げつけて、母親が心配して自分の部屋に駆けつけてきたりした。JRから京王線に乗り換えて、去年と同じく試験会場まで行った。自分は一日無線で連絡を取り合う試験管達に監視されながら、精一杯試験問題を解いた。結果は千五百九十五人中、三百二十九番であった。不合格であった。その年の合格者数は二百七十人であった。母親は、
「去年だったら受かっていたのにね」
 と言った。自分はもう一度試験を受けることはなかった。もう一度受験すれば合格するかもしれないという考えが、無いわけではなかった。唯、二度の不合格の後で、自分は本当に警察官になりたいのかという懐疑が生まれていた。それに引っ張られるようにして、自分は本当に警察官になれるのか、警察官になったとして続けていけるのか、厭になって結局は拳銃でこめかみを撃ち抜くのではないか、という思いがあった。
 

小説を書こうと思ったのは、その後のことだった。ずっと憧れだけが自分の中にあった。「小説家でごはん」や、他の小説投稿サイトに小説とは呼べそうにないものを時々投稿していたが、本格的なものを書いたことはこれまで一度も無かった。なれるはずがないと思っていた。然し自分が自分を認める為には、もう小説を書くしかなかった。小説家になることは自分に唯一残された希望であった。自分は「書くしかないんだ小説を」と書いた紙を机の前に貼った。近所の百円均一の入っている大型量販店に原稿用紙を買いに行った。パソコンは居間にあったので、父親がいるときは使えなかった。自分はそれ故に原稿用紙を使った。無い頭を振り絞って二年と一寸かけて処女作が完成した。自殺願望と殺人衝動を抱えるひきこもりの男が、真夏のとある日に、包丁を持って家を飛び出し、街をうろつきながら、人を殺そうとする話であった。自分はなんと小説のイメージを膨らませる為に、たった一日だけだが、勇気を出して東京に赴いたのである。この小説の主人公が、イメージでは東京のような都市に住んでいたからであった。そして山手線の幾つかの駅で降車して、その周辺をぶらついた。人が多くて自分は本当に怖ろしかった。新宿ではなぜか歌舞伎町のさくら通りに入っていってしまい、路上で男に、
「DVD! DVD!」
 と声を掛けられ逃げた。ここではラブホテルから出てくる自分と同世代くらいの男女を目撃し、あれが普通なんだと落ち込んだ。都庁側にも行って、新宿中央公園に行き、滝の上のベンチに座って、ハンバーガーを食べた。本当は牛丼屋に入ろうかと思っていたが、精神病的に店に入ることが怖くてできなかった。公園には裕福そうな犬を連れた人達が集まって話をしていた。同じ公園内ではホームレスがブルーシートにくるまって寝ているのを見た。自分は秋葉原にも行った。歩道の隅で腕立て伏せをしている者がいた。背の高い、とあるキャラクターのコスプレをしている人も見かけた。車道は歩行者天国だったが、少し前に起きた加藤智大の事件で数メートルおきに警備員が立っていた。自分はビルから垂れ下がるアニメの広告の巨大な垂れ幕を見て、いわゆるオタクビジネスの資本力を感じながら、通りを行きつ戻りつした。心が壊れずに大学に行って、オタクの友達でもできていれば、色々教えてもらいながら、この通りをわいわい騒ぎながら歩いたのだろうと思うと、死にたくなった。加藤智大になりたくなった。
 その年の秋になって、結果の掲載されている冬季号が出た。自分は近所の本屋へ向かった。結果はどうしても知らなければならなかった。少し光沢のある鼠色の表紙に黄色い字で新人賞発表と書かれていた。項をめくると応募総数が書かれていた。千八百九作品が今回の数であった。一次予選通過が六十九作品、二次予選通過が四十二作品、三次予選通過が二十一作品、四次予選通過が九作品、さらにその中から最終候補作が選ばれ、その四作品の中の二作品が受賞作であった。自分は一時予選通過の所に小さく名前が載っていた。二年と一寸の努力がそれであった。自分は生きている意味が良く分からなかった。自分の人生の歯車は滅茶苦茶に狂っていた。自分は然し、二作目の小説を書いて同じ新人賞に出した。それしかできなかったからであった。


    三


厳密に言えば、自分はハッキング行為それ自体には気づいていなかった。自分に対する仄めかしという脅迫行為を通して知ったのである。仄めかし、つまり脅迫のやり方は大きく分けると次の三つであった。容姿を馬鹿にするもの、自分が最近インターネットで調べたことを書き込んだり、記事にするもの、自分がインターネット上にアップロードしていない小説の内容の一部を書き込んだり、記事にするものであった。容姿をばかにすることに関しては、おそらくスマートフォンのカメラを通して盗撮されたか、外出時にストーカ―行為をされたのだろう。でなければ説明がつかない。
最初に気づいたのは「小説家でごはん」でのことであった。投稿されている作品を流し読みしていくうちに、自分は違和感を覚えた。自分のことが書かれているような気がした。まさかそんなはずはない。自分の病気もここまできたかと、そう思いながらも自分はその中の作品の一つに感想を書き込んでみた。別段、批判的でなかったように思う。すると書き込んでみた後で、5ちゃんねるの「小説家でごはん」スレッドの方で、最近、現われたハゲを連呼する書き込みを行ういわゆる荒らしがその中でこう書いていた。
「やっと気づいたな」
自分はその頃、暇さえあれば「小説家でごはん」スレッドを覗いていたから、自分がそれに気づくのはほぼ確実であった。
「小説家でごはん」での仄めかし、つまり脅迫で決定的であったのは、MG一九の投稿した作品のタイトルであった。
「時間よ、止まれ」というタイトルで時間旅行者に選ばれた男が主人公の、コメディタッチの作品を投稿していた。この「時間よ、止まれ」という言葉は、まだ自分がネットにアップロードしていない例の新人賞に出す為に書いた小説の冒頭に、印象的に出てくる言葉だった。自分はそれを父親の外出中プリンターで印刷するために、原稿用紙の束を手元に置きながら、パソコンの中に打ち込んで保存していたのであった。自分は犯罪者に対し、感想欄を使ってこう書いた。
「ハッキングは犯罪ですよ。警察に捕まりますよ」
返事はこうであった。
「何の事だかわかりません」
自分はその後で、IPアドレスから住所を割り出す方法を検索した。それらしいサイトをいくつか見つけることができた。然し自分は本当には住所を割り出そうとはしなかった。MG一九と同じになりたくなかったからであった。そのすぐ後で「小説家でごはん」を覗いてみると、慌てたようにMG一九が、IPアドレスから住所を割り出すことはできないと書き込んでいた。他に「P」(ユーザーネーム)などは自分が長野県の某市のことを調べた後で、同じ市のことを書き込んでいた。「小丘忍」という自称老医も、「MG一九」と似たようなやり方で、よく自分を脅迫する内容の作品を投稿した。自分はそのうち「小説家でごはん」を見なくなった。
ハッキングを仄めかす脅迫は、5ちゃんねるまとめサイト速報プラスでは、ほぼ毎日のように行われた。特に一面下段の中央に位置する用事無い人速報では、おそらく仄めかし、つまり脅迫する内容の記事が載らない日はほとんどなかったように思う。
初期の頃であった。用事無い人速報の左隅に位置するジャンガリアン速報では、ハッキングを裏付ける奇妙なことが起きた。旭日新聞の記事で、パソコンに付属し、インターネットと繋がっているカメラによって、盗撮される危険性があることへの注意喚起をする内容の記事が、ジャンガリアン速報で取り上げられた。その旭日新聞の記事には旭日新聞が調査のために、実際に盗撮したかのようにも取れる箇所があった。基本的にインターネットでは旭日新聞の旗色は悪い。インターネット上にはネット右翼と呼ばれる一大勢力があって、ネット右翼はいわゆる従軍慰安婦問題などで、不確かな情報を事実として報道し、日本の信用に傷を付け、外交に不利益を与えた旭日新聞に対し、憎しみに近い感情を持っていた。このような場合、いつも通りなら、旭日新聞への一方的な批判でコメント欄は埋め尽くされるはずであった。ところがその時は違った。パスワードを設定していなければハッキングにはあたらないという妙な擁護が、大量に連続して書き込まれたのであった。旭日新聞がここまで分かりやすい工作をすることは一寸考えにくいから、おそらくは自分にハッキングを仕掛けている犯罪者達が、自分に行っている犯罪行為を犯罪ではないと思い込ませようとしてやったことだろう。
5ちゃんねるまとめサイト速報プラスではこんなこともあった。自分はひきこもりであり、運動不足であったので、腸にガスが溜まることがよくあった。ひきこもりが自分の部屋で放屁しても、自分の部屋が臭くなるだけだと、自分は遠慮しなかった。すると、おならがどうのこうのという書き込みや記事が目に付くようになった。どうやらスマートフォンで盗聴されていたらしかった。自分はまるで夏目漱石の草枕だと思った。多分、あれは比喩なのだろうけれども、「近頃は電車というものが出来たそうじゃが」なんて会話文が出てくる明治の頃から、今では時は過ぎて、新幹線を通り越してリニアモーターカーが走ろうかという現代なのだから、比喩が本当になってもおかしくはないのかもしれない。自分はぼんやりとそんなことを思った。
仄めかし、つまり脅迫はネットだけに留まらなかった。テレビでもラジオでも行われた。記憶に残っていたものを、後でインターネットを使って確認して見ると、次のようなものがあった。二〇一五年二月九日にフジヤマテレビで放送されたポセイドンリーグというクイズ番組の後半で、トキテレビでは、日曜日の夕方から放送しているニュース番組の司会も務めている、フリーアナウンサーの福山明が唐突に、いわゆるカンペを読むような感じで、
「数々の困難を乗り越えて、今僕はここにある」
と言った。「を乗り越えて今僕はここにある」という部分。正確には「いる」だが、これは自分がネット上にアップロードしていない例の公募用の小説の、最後から二行目に書かれた言葉だった。考え過ぎだろうか? 然し、フジヤマテレビは精神病質者を放送していた局でもあった。自分は過去にこのアニメ作品をインターネット上でかなり批判していた。そのフジヤマテレビの朝の情報番組である「お目覚めテレビ」という番組内で、劇場版の精神病質者の宣伝のために、主人公の声優である木瀬智一と磯野香奈が、インタビューを

無題

  • アンバー
  • 2014/02/12 (Wed) 03:07:57
なにもかもがすべて過ぎ去ってしまうね

お知らせ

  • 法律相談部HP管理人
  • 2012/09/18 (Tue) 14:42:54
こんにちは。
当法律相談部のHPのトップページに
第56回無料法律相談会のお知らせを掲載しております。

不明な点などがありましたら、当掲示板にお気軽に
書き込みください。

相談会終了

  • 法律相談部HP管理人
  • 2012/12/04 (Tue) 13:40:47
第56回無料法律相談会は無事終了しました。

ありがとうございました。

今年、海に落とされることになりました。

  • Lucky 7
  • 2012/07/20 (Fri) 15:43:42
はじめまして、こんにちは(^^)


海水に浸かることがただいま決定しました(´・ω・`)

とある役職の伝統のせいです(´;ω:`)

落とされるそうですよ…クラゲ怖いよ~!!

そんな浜コン、今年も開催します。

部員総勢約70名となったので、わいわい楽しみましょう!!

バイチャ!



明日から…!

  • 4年O野
  • 2011/06/12 (Sun) 22:45:27
こんばんは。久々に書き込みます(^о^)



部員の皆さん、2日間電話受付お疲れさまでした!



受付件数MAXまでとれて、なんとかスタートラインに立った感じでしょうか。



これから検討会、模相と色々立て続けにスケジュールが入ってきますが…


1人1人、落ち着いて、出来ることをやっていきましょ(・ω・)ノ



大丈夫です。みんないますから。



最初は見えなかったことも、日を追ううちに見えてきます。



協力して、周りに感謝して、



2週間、いい準備して本番に臨んでもらえたら嬉しいです☆



…引退した身で偉そうなこと言ってスンマセン汗


陰ながら、応援してます…!

新入部員45人!!

  • ヤナギ
  • 2011/05/14 (Sat) 19:20:28
さてさて、法律相談部も新たに1年生を迎えたわけですが、45人とかすごい人数ですねw( ̄△ ̄;)w

この人数だと、今のところ明確には編成されていない農地班どころか、家族班は相続班、離婚班に、財産班は債務整理班、債権回収班、相隣班、賃貸借班にと新たに編成・構成できるかもしれませんねヽ(^◇^*)/

にしても、今年の1年生は元気よすぎ!!

Re: 新入部員45人!!

  • 仙谷由人
  • 2011/05/19 (Thu) 11:20:57
では、正式に手始めにカラオケ班、テニス班、麻雀班、野球班、ダーツ班を結成しましょう。

無題

  • はむすたー
  • 2011/03/29 (Tue) 12:15:37
あたしと、O野君の他にも書き込みしてる人が!!(^^)
わーい!

新入生もどんどん書いてくれるといいなあ

取りあえず、みんな無事でよかったー

無題

  • 新潟市民
  • 2011/03/11 (Fri) 18:27:00
青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島・群馬・栃木・茨城各県の部員の皆様ご無事ですか!?
非常に心配です……!

Re: 無題

  • 長野県民
  • 2011/03/11 (Fri) 23:35:43
長野県民は無事です!(>_<)

無題

  • こんにちはー
  • 2011/02/11 (Fri) 12:11:23
テスト期間も終わり、いよいよカルテ勉強会当日!!
一年生頑張ってね!(><;)

3年生のみんなは元気かなあ…


こんちはー(^-^)

  • 3年O野
  • 2011/02/02 (Wed) 15:27:21
どうも。つい最近引退した者です!
誰だか…分かってもらえると幸せです(笑)

テスト週間まっただ中ですが,元気ですか。
僕はアジアカップ全試合見て寝不足です↓
体調はどうですか。徹夜はいけませんよ。
次の日キツイですからね(^v^)

終わったら皆…遊んでね!!一日くらいは
死ぬ気で遊んでいいと思います☆

遊べるのは今のうちだと思うんでね。
春休み,有意義に使って下さい。

暇なったらまた書きこむかもです。
そんときは宜しく!

Re: こんちはー(^-^)

  • 管理人
  • 2011/02/04 (Fri) 19:32:21
お久しぶりです(^o^)

テスト週間ということもあり、部室にはあまり人がいませんね~


テストが終わるとすぐにカルテ勉強会が始まってしまいますが、そのあとの打上げやスキー合宿を楽しみに頑張りたいと思います!